コミュニケーションについての雑感-13
違う話題の中に接点を見いだす
~数学的発想の知恵~
見かけ上、全く違ってみえる話題に混じる知恵について昨日から考えています。
今日は「数学的発想の知恵」についてです。
実は昨日の「かまくら」に関して寄せられたコメントの中にも、この数学的発想の知恵がふんだんに入っていました。
「数学」っていうだけで「自分は苦手だった」「嫌いだった」という方々もたくさんいらっしゃるでしょうね。
でも「数学的発想」を日常に生かすというのは、日本人が万葉以前の昔から得意にしてきたことだと思っています。
それが「数学」=テスト勉強のため という偏りでしかとられられなくなったから、せっかくの知恵が活かされていないのが現代社会だと思うのです。
実際に就労支援施設でも中高生相手の家庭教師でも、「数学の知恵」については随分と紹介してきました。
そして、受け入れたみなさんは、何かが大きく変化しました。
数学って何をやっているのか・・・ここでは「見た目には違う事柄の裏側に貫いているものを見出す」ということとします。
「異なるものを結び付ける」と言い換えてもいいです。
そうすると、「違う話題」ということに活かされそうだという気がしませんか?
数学は具体的な事柄からどんどん余計なものをはぎとって、最後に残るものを「数式」「図式(の構造)」に置き換えることでそれを行っています。それが抽象化。抽出された本質を数式や図式で表したら、共通の型になるものがでてくる・・・共通の型どうしのものは、見た目がどんなに違っていても「同じ」とみなしていくわけです。
ごくごく簡単な例をあげれば
「時速50キロメートルで3時間進んだ道のりは150キロメートル」
「一つの箱にボールが50個。3箱分ではボールは150個」
どちらも式にしたら 50×3=150
となる。
ちなみに算数だと、それぞれは区別して扱います。
でも数学では、どちらも 〇×□=△ (中学生以降でいえば Y=ax)の形になるから、同じとみなすわけです。
上原輝男先生の師匠である国文学者(民俗学者)の折口信夫先生は「類化性能」ということを大事にされていました。
「異なるようにみえる物事であっても、実は同類だと見抜く能力」のことです。
それはこの数学の発想と同じだと思います。
上原先生が「古典芸能での型の修練」「儀礼文化」方面でも深く探求されていたのも、古代からの日本人の無意識の中にある「型」を見いだそうとしていた、ともいえます。ユングの集合的無意識だって「元型」と呼ばれていますしね。
私がよく例に出すのは折口先生の「まれびと論」です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BE%E3%82%8C%E3%81%B3%E3%81%A8
簡単にいえば「どこからか神がやってきて、その土地に祝福をもたらし、その後また去っていく」という来訪神(者)のことです。
これを型として考えると、ドラマやアニメの基本設定をはじめとしてかなりあることがわかります。
このHP内の上原先生の言葉のコーナーでもふれていますが、先生の愛弟子である金城哲夫さんは、上原先生から高校生時代に受けたこのまれびとに関しての授業で沖縄の民俗学のことを説かれ、それをもとにしてウルトラマンを発想したと言われています。
「光の国からやってきて、怪獣を倒し 3分後には帰っていく」
同様のものはいくらでも思いつくのではないでしょうか?
「サンタクロース」「水戸黄門」「(特に初期の頃の)ゲゲゲの鬼太郎」・・・・・・・・・
これはひとつの例ですが、昨日の話のような「どんどん掘り下げる」というのが難しい場合だと、この「型(構造)が同じものは同類とみなす」というのは非常に有効です。
またそれは「一つの話題」をどんどん広げていって、話をもりあげるのにも役立ちます。
昨日のコメント文で「かまくら」というのが閉じた空間に包まれる・・・・では同じ構造として テント だの おうち だの 子宮だの・・・と連想を広げていくのと同じですよね。
日本人の言葉遊びでの「駄洒落」とか「〇〇とかけて△△ととく・・・」とか「連歌」なんていうのも、まさにその修練をかねていたと言えます。
そうした言葉遊びや、日常のいろいろな場面でそうしたことを見出すつもりで生活をしていると、自然にいろんな話題に入っていけるようになると思います。